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建築大工の道 3 棟梁として
 倉本工務店としての本格的な営業は、昭和48年のオイルショックの時でした。資材不足で建築費が高くなった時期でしたが、お客様からは反対に「値上がりするから早く契約してほしい」と次々と発注を頂き、今思えば大変有難いことでした。
 創業20年目を迎えた平成3年、法人化するにあたって社名を「成喜建設株式会社」と変更し新しいスタートを切りました。現在はそれからさらに20年近い社歴を刻んできました。この間に経済情勢の激変があり、阪神大震災等を経て建築基準法の大改正など、建築業界にとって大変厳しい状況の変化が起こっています。長い間には、お施主様と気持ちをひとつにして、成喜建設の持ち味を生かした建築を創らせていただく、有難い機会にも恵まれましたが、正直言いますと多くのお叱りも頂戴しました。そのことを研究課題として受け止めて、解決することによって技術の向上と心の成長ができたことに感謝しています。
 大工道具一式を担いで故郷から大阪に出た時には、思いもしなかったほど、規模も構造も様々な建築に取り組向む機会を頂きました。伝統和風からモダンデザインまでの様々な住宅、公共建築、マンション、店舗、工場や倉庫、そして神社仏閣はもちろん、古民家の改修にも力を注いでいます。また初期の仕事は汲み取り式トイレの改修から始まった事を、今でも大切に心に刻んで、棚1つ、手すり1つのりフォームまでどんな仕事でも走り回っています。
 これからも「信頼と真心で創る」を第1のモットーとして、日本の風土に合った、お客様に喜んで頂ける建築を研究し続けたいと念願しています。また神社仏閣など古来からの建築にもコツコツと取り組み、大工修行の入門以来、親方に仕込まれた伝統的建築技術を若い世代に伝えてゆきたいと思っています。最後に成喜建設をここまで育てて下さったお施主様、苦楽を共にして建築を作り続けてきた、設計、設備などの多数の協力会社の関係者にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
author:kura, category:私の履歴書, 01:15
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建築大工の道 2 独り立ち
 昭和30年代後半の高槻は、京都と大阪の中間点で快速電車の停車駅でもあり、工場進出とベッドタウンとして町自体が大きく発展する途上でした。最初は地元の工務店に大工として10年間勤め、田舎で叩き込まれた、豪雪に耐えるための骨太の建築とはひと味違う、古くから京、大阪の境にあって栄えた城下町の洗練された建築を学ぶ事が出来ました。
 昭和41年に親方の紹介で見合い結婚をし、1男1女に恵まれました。しかし高度経済成長期にあって、仕事第1主義で通したために、家庭を振り返る余裕すらないほど、多忙を極める毎日でした。その中で色々と人生勉強もし、様々な苦しみや悩みに出会いましたが、生来の負けん気で『苦に徹する心』をももって積極的に前進するよう努力しました。
 建築のプロとして報酬を頂く限りは、最良の仕事をして当然であり、好きな物造りで喜んでいただけるのですから、誠心誠意努力することでこれにお応えしようと言う気持ちでした。その頃仕事に熱中するあまり、作業中は人の話が全然耳に入らないという、職人気質そのままの頑固者でした。しかし経験を積むにつれて、直接お客様から仕事を頂いて、自分の差配で完成させたいという気持ちも生まれて参りました。
 そこで、仕事に熱中すると無口になり、最良の仕事を目指せば頑固に映るという短所を長所にかえて、率直さ、責任感、忍耐力で皆様に信頼を頂いていこうと考えて独立に踏み切ったのが昭和46年でした。
 独立といっても、見習いを一人連れた大工の親方で、時には家内を手元に使い、早朝から夜遅くまで懸命に打ち込んで、徐々に数名の若い職人を育てるようになりました。本格的な事業所を奈良県に設けようかと、土地の紹介を受けたのが偶然にも、当時高槻城北郵便局長さん所有の土地でした。その時「今度、局舎の立て替えをするのでお願いできないか」とのお話を頂き、それがご縁となって高槻に腰を据えて開業する事になりました。
author:kura, category:私の履歴書, 09:32
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建築大工の道 1 修業時代
社長同窓会 先日、中学の同窓会があったので、久しぶりに故郷で旧交を温めてきました。皆それぞれの道で長年頑張って来たのを知るのは、感慨深いものでした。これを機に建築を志して歩んできた、私のこれまでを振り返ってみることにしました。
 私が生まれたのは日本が太平洋戦争突入する直前の昭和15年です。母は産後の肥立ちが悪くて亡くなったため、義母に育てられました。京都生まれですが、終戦の前に父の郷里である鳥取県の山村に帰って、山の中で木に囲まれて育ちました。暖冬が続く昨今でも、何十センチも雪のつもる豪雪地帯です。学校まで2里の道を、冬はスキーで通っていました。家計が苦しかった事もあって学校で使う本は借り、ノート等は運動会、マラソン大会等に出るたび商品稼ぎに精を出して、それで間に合わせていました。小学校高学年から物作りに興味を抱いて、勉強机、本棚等を自分で作ったり、勉強部屋らしき物を自作して満足していました。このころ人に工作をほめてもらった事が、大工の道を志す糸口になっているように思います。
 進路を決める時、小学校のときから決めていた大工になるんだと、神社仏閣や伝統的な入母屋造専門の、厳しい親方に弟子入りしました。そこでの徒弟生活は、年中無休、夜明け前に、朝食のご飯を炊くところから始まる厳しいものでしたが、それに耐えた事によって、忍耐力が身に付き、そのおかげで皆様の信頼を得る事が出来たのではないかと、感謝しています。
 6年間の修業期間が終わってから、2年ほどは本業の大工仕事の合間に家業である林業の手伝いをして、木について成育過程という別の角度から学び直しました。そのうちにもっと幅広く勉強したいという意欲が押さえきれなくなり、昭和37年に大工道具だけを担いで、発展し始めたばかりの高槻に出て参りました。
author:kura, category:私の履歴書, 00:18
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